はてなキーワード「ttp://」がきになる年頃です。

なんつか。はてなキーワード「ttp://」がきになる年頃っていうか、でもだって「ttp://」を含むエントリってのは書き手がなんらかの理由でリンクしなかったわけです。
それはリンク先への書き手の思いやりだったり、対象を生ぬるく見守りたいという意思だったり、リンク先とは係わり合いになりたくないという思いだったり、それら様々な意図が「http://」からhをとるその一事に集約されているのですね。
そういった諸々の思いを、はてなのキーワードシステムが根こそぎさらって、ひとくくりにしてしまう、その現象がなんだか怖くもあり楽しくもあり、とにかくきになるわけです。

そして考える。
「ttp://」を含むエントリに存在するそれらの「どこにも向かわないリンク」たちを全部あつめて羅列するサイトを作ったら、書き手のリンクしたくないという思いを踏みにじるサイトができるのだろうか? リンクされる側の意にそぐわないリンクが世界に産み落とされるのか? だがそれは見方によってはとても有用なリンク集になったりするのだろうか? 
とかそんなことを考えてしまうわけですなんせ暇なので。

最近のドラマで、漫画原作付が多い本当の理由がわかった。

最近のドラマで、漫画原作付が多い本当の理由がなんとなくわかった気がするのだが、つまり、ドラマ公式サイトのキャストページで男性キャラを黒塗りせずに漫画キャラで置き換えられるからではなかろーか? たとえば有閑倶楽部の公式(http://www.ntv.co.jp/yukan/cast/chart.html)でも、美童や清四郎は(写真が出せない都合上)キャラ絵になっている。これがもし、原作なしのオリジナルドラマだったらキャラ絵のかわりに黒塗りのシルエットを出すしかないわけだ。視聴者もがっくりしちゃう。だからこそ各局こぞって漫画原作付ドラマにとびつくのだ。


その事実に気づきながら、おれの心の中に別の違和感が湧き上がる。キャストページで黒塗りシルエットのかわりにキャラ絵が使われてゆくこの現状は、男性キャストの真の顔を隠すだけでなく何か別のことをも隠蔽しようとしているのではないか?
男性キャストの黒塗りシルエットはブラウザ空間にぽっかりと開いた闇だ。その深淵を覗き込むとき、おれたちは例の組織の力というものを思い知る。その理不尽さに怒りを覚える。写真ぐらいだせよ、と。
だがこれがまがりなりにもキャラ絵が使われていれば業界の黒い闇を、この組織の闇の力を視聴者が感じずに済むのではないか。であればキャラ絵のある漫画原作付ドラマにしよう。そうして、組織への非難をうまく反らそう、と。
そんな、製作者サイド・業界サイドの思いが透けて見える気がするのである。うそである。

ペリカンの子供用万年筆で仕事すると楽しいのです。


ペリカーノJrがamazonで買えるようになっているの知らんかった、のでリストアップ。
ちなみに私はペリカーノJrよりちょっとだけ対象年齢が上のペリカーノさんを使っています。*1
ペリカーノのスケルトンピンクと無印良品のピンク眼鏡をあわせてるわけです。仕事できなさそうってよく言われます。実際に給料泥棒はなはだしいのですけど。
でも楽しいからいいのです。仕事だって楽しくやらなきゃです。

ペリカン ペリカーノJr - Pelikan Pelikano Junior - 本体:イエロー 万年筆

ペリカン ペリカーノJr - Pelikan Pelikano Junior - 本体:イエロー 万年筆

ペリカン 万年筆 A レッド ペリカーノJr 正規輸入品

ペリカン 万年筆 A レッド ペリカーノJr 正規輸入品

ペリカン 万年筆 A ブルー ペリカーノJr 正規輸入品

ペリカン 万年筆 A ブルー ペリカーノJr 正規輸入品

ペリカン 万年筆 A グリーン ペリカーノJr 正規輸入品

ペリカン 万年筆 A グリーン ペリカーノJr 正規輸入品

補足:生命(人類)をメディア扱いするとき越えるものは二種類ある。

昨日の「生命は神のコンテンツを運ぶしょぼいメディア」エントリの補足。
昨日のエントリでは当該メディア(人類)が伝達・通信のために越えるべきものは《時間》ということになる。ではそのメディアが格納している情報は何なのよ、ってことになるとこれはもう「神の存在証明」くらいしかないのですな。宇宙において生命が発生する確率はめっさ少ないにもかかわらず生命がいるっつーことは、「この宇宙には神の介入があった、てことを第三者に証明する」てのが一番ありがちなネタですね。シンジのママがエヴァを使ってやろうとしたこともこれに似てるんじゃありませんでしたか? 人類がいたということを誰かに伝えるために、ヒト(エヴァ)を使いますーてきな。カミヒトの構図をヒトエヴァの構図に置き換えたぜーっていう。
そんでもう一つ。
生命や人類をメディア扱いするときに越えるものを《時間》ではなく、宇宙の終焉→宇宙の開始とするアイディアもある。(この場合、厳密には生命は宇宙の終焉と宇宙の開始を超えてはいないのだけれど)
JoJoの一巡後の世界やフレデリック・ポール「ゲイトウェイ」のヒーチー、あるいはスティーヴン・バクスタージーリーが類似アイディアですね。
たとえばこの宇宙ではネロの見た絵はルーベンスの「キリストの昇架」「キリストの降架」であっても、次の宇宙ではルーベンスではなくレーベンスかもしれない。キリストもクリフトかもしれない。でも類似のコンテンツ(絵画)は発生しうる、そしてコンテンツを作り出す可能性/ソフトウェアを持つ存在が生命や人類なのだっていうネタですね。
士郎正宗のいう「情報の高効率パッケージ」とも類似。
ある特定のコンテンツを此方から彼方へ運ぶための媒体としての生命というよりは、コンテンツを作り出す存在としての生命ってことになってくる。毎回発生する宇宙に多様性をもたらすための生命。まんま士郎正宗
ま、この場合、神とか不要ですが。


ジョジョの奇妙な冒険 Part6 ストーンオーシャン 17 (80)

ジョジョの奇妙な冒険 Part6 ストーンオーシャン 17 (80)

虚空のリング〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

虚空のリング〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

攻殻機動隊 (1)    KCデラックス

攻殻機動隊 (1) KCデラックス

仙術超攻殻オリオン (Comicborne)

仙術超攻殻オリオン (Comicborne)

学生時代、大量のエロ画像を集めては光ディスクに焼いてたセンパイがいた。

まだ国内のネットも不十分だったころ、研究室の高価なWSでエロ画像を集めては光ディスクに焼いてたセンパイがいたのだけれど、ふと思う。あの光ディスクのエロ画像はいま読み出せるのだろうか?
おれ自身、当時のHTMLやGIFを2DDに入れたままもう読み出せない。あのコンテンツはもう死んだ。
コンテンツはメディアの死によっても死ぬ。
そうだ。メディアはいつか死ぬ。いまならネットストレージもあるからメディアの寿命はだいぶのびただろうけれど、じゃあその次に問題になるのはフォーマットだ。GIFやJPEGが死んだらどうする。RAWデータならOKか?
いやRAWすら理解できないこともあるだろう。最悪、コンテンツ消費者が色を知っているかどうかすらわからない。
となればコンテンツとプレイヤーをセットで保存・伝達すればいいだろうか? 環境が変わっても動作するロバストネス(頑強性)を持ったプレイヤーならOKだろうか? 明日にも世界の環境が激変するかもしれないのに壊れないプレイヤーなんてありえるのか? それは多分無理だろう。
ならプレイヤーが環境に適応するしかないのだ。あるいは環境を無理やり是正してプレイヤーが動作するようにするしか。


もうこうなると、プレイヤーは生物みたいなもんである。環境に適応し、聞き手のプロトコルを理解・学習し、コンテンツ伝達という目的を達成する《進化するプレイヤー》。
さらにはコンテンツの聞き手がそばにいなければ、プレイヤーは聞き手を探しに行く行動動機を持っているかもしれない。


たとえば生命や人類が神というふざけたヤロウのどうでもいいコンテンツを運ぶメディアに過ぎなかったとしたら。
おれたちの中にある、自分たち以外の未知の知性体へのあくなき興味と宇宙への憧憬は《コンテンツプレイヤーとしての機能を満たすための思考スキーマ》なのかもしれない。誰かに何かを伝えるためにただ生きているという。


宇宙の起源(此方)から宇宙の終焉(彼方)へコンテンツを渡そうと思ったら、生命ってぇのはなるほど便利な存在かもしれない。草薙素子が言う「生命は情報の高効率パッケージ」とは別の意味で高効率パッケージですわ。


てことは、神の愛ってばコンテンツプレイヤーとしての生命や人類への愛なわけだ。ある種の道具への愛。おれたちが初音ミク萌え言ってるのと同レベルで萌えてるだけなんだな。いわゆる二次元萌えと同義での、三次元萌えヤロウというわけだ。


あっはっは。


神、きんもーっ☆

「xxはおれの嫁」が弱い力なら、「おれの嫁はxx」は強い力

ガキの使いやあらへんで!! - 山崎あやの500のコト
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1283426

昨日の山崎の嫁こと山崎あやさんの「500のコト」には5秒に1回想像の斜め上を行かれたわけで、あんだけかわいくてしかもあのクオリティの回答できる女性と結婚できるとなったらそりゃあ小学生の将来の夢ナンバーワンは芸人にもなろうというものである。
なのにおれたちときたら将来は弁護士とか総理大臣とか世界征服とか書いたりなんかして、実現した征服っても結局エロゲーの中だけだし、つか征服ってよりも蹂躙だし、しかもただの肉体蹂躙だし、しょうがないので二次元平面におれの嫁宣言するくらいしかないのであった。
そんでじゃあ××はおれの嫁なんてのは結局はかなわぬ期待や空虚への宣言や現実味のない願望てきな弱い力(weak interaction)でしかなく、だからおれたちはダメなんだとおもった。
ちがうそうじゃない。そうじゃないんだ。
山崎あやさんと山崎さんを見て、鈍感なおれもやっと気づいたのだ。
「××はおれの嫁」などという、××がなしたことや××の行動履歴を受動的にほれ込んで嫁宣言して終わりなんてんじゃ弱いんだ。そうじゃない。まずは女子の嫁化をするのだ。その上で「おれの嫁は××だ」てきな発表なり表現なりをし、嫁強度を高めるんだ。
そのために山崎さんのように山崎あやさん本体の能力に頼った嫁強度の高めかたもありだし、板尾創路さんのように全編ファンタジーで彩られた高強度な嫁をプロデュースしてもいい。
「おれの嫁は××」なんだぜこんなにすごいんだどうだおまえら。そういう強い嫁、強い力(Strong interaction)を見せつけるんだなんだぜ。
そのために君が初音ミクを使うというならそれでもいい。
おれはそれを楽しんで聴く。
おまえの嫁を賞賛しちゃる。
だからあとでzipでください。

TITLEが「エントリータイトル - 日記名」となったことで世界の断片化がより進むが犬は吠えない。

いわゆるロビンソンのスピッツ問題
http://rikuo.g.hatena.ne.jp/rikuo/20071014/p2007101401

はてなダイアリーTITLEが「日記名 - エントリータイトル」から「エントリータイトル - 日記名」になったことで、書き手よりもエントリの内容そのものを評価する流れに移行する、すなわち世界はよい意味でより断片化するだろうという予測が各方面でなされているわけだけれども*1、では実際に世界はどうなっていくんだろう。
その昔、一部のテキサイ管理者がブログ化を拒み、あるいは火災くんが一日分のダイアリを「一枚の絵」と評してブクマで切り刻まれるのを嫌った*2とき、私は彼らの自作への愛のようなものを感じたし、とはいえ読者がそれを望むなら世界がh3要素で構成されてもかまわないかなとも思っていた。
そして今回のTITLE要素変更により、書き手はさらに一歩引いた位置に立つことになる。書き手の顔は見えづらくなるが、エントリそのものを評価したいという読者にとってはたぶんよいことなんだろう。*3
この世界の断片化が、即書き手のモチベーション低下につながるとは思わないけれども、ちょっとは影響があるんじゃないかな?*4
なんていう書き手としての不安(不安?)を感じつつも、読者としての私はダイアリーもブログも人で見ていることが多いのだった。
これは私が楽をしたがるからだと思う。あの人が書いたものならば、この情報チャネルならば7,8割方おもしろいぜ、といった情報収集コストを下げるための「人」。
兵藤和尊さん(カイジ)の「王は平均して負けないから王」みたいな発言を思い出す。100%面白いわけでなくても、7,8割面白かったらその人は私にとって王みたいなもんだ。
世界の断片化がより進んで、エントリ毎で評価する風潮が主流になったとしても、私は平均して面白い人を読み続ける気がする。


だって楽だし。

*1:もちろんこれははてブという《世界切り取りツール》とのコンボでこそ断片化が進むわけだけれども

*2:ように私には見えた

*3:書き手と作品の乖離を惜しむのは書き手のケツの穴がちっちぇだけかもしれませんね。先の、テキサイ者や火災くんは書き手と作品の乖離どうこうじゃなくて、作品そのもの、文章そのものを愛していた。かってに切り刻むんじゃねぇという愛

*4:書き手っていう文脈をスルーする読者が増えるとエントリが冗長になるか、書き手がストレスをためるか、そんなことを気にしない書き手になるかの三択