学生時代、大量のエロ画像を集めては光ディスクに焼いてたセンパイがいた。

まだ国内のネットも不十分だったころ、研究室の高価なWSでエロ画像を集めては光ディスクに焼いてたセンパイがいたのだけれど、ふと思う。あの光ディスクのエロ画像はいま読み出せるのだろうか?
おれ自身、当時のHTMLやGIFを2DDに入れたままもう読み出せない。あのコンテンツはもう死んだ。
コンテンツはメディアの死によっても死ぬ。
そうだ。メディアはいつか死ぬ。いまならネットストレージもあるからメディアの寿命はだいぶのびただろうけれど、じゃあその次に問題になるのはフォーマットだ。GIFやJPEGが死んだらどうする。RAWデータならOKか?
いやRAWすら理解できないこともあるだろう。最悪、コンテンツ消費者が色を知っているかどうかすらわからない。
となればコンテンツとプレイヤーをセットで保存・伝達すればいいだろうか? 環境が変わっても動作するロバストネス(頑強性)を持ったプレイヤーならOKだろうか? 明日にも世界の環境が激変するかもしれないのに壊れないプレイヤーなんてありえるのか? それは多分無理だろう。
ならプレイヤーが環境に適応するしかないのだ。あるいは環境を無理やり是正してプレイヤーが動作するようにするしか。


もうこうなると、プレイヤーは生物みたいなもんである。環境に適応し、聞き手のプロトコルを理解・学習し、コンテンツ伝達という目的を達成する《進化するプレイヤー》。
さらにはコンテンツの聞き手がそばにいなければ、プレイヤーは聞き手を探しに行く行動動機を持っているかもしれない。


たとえば生命や人類が神というふざけたヤロウのどうでもいいコンテンツを運ぶメディアに過ぎなかったとしたら。
おれたちの中にある、自分たち以外の未知の知性体へのあくなき興味と宇宙への憧憬は《コンテンツプレイヤーとしての機能を満たすための思考スキーマ》なのかもしれない。誰かに何かを伝えるためにただ生きているという。


宇宙の起源(此方)から宇宙の終焉(彼方)へコンテンツを渡そうと思ったら、生命ってぇのはなるほど便利な存在かもしれない。草薙素子が言う「生命は情報の高効率パッケージ」とは別の意味で高効率パッケージですわ。


てことは、神の愛ってばコンテンツプレイヤーとしての生命や人類への愛なわけだ。ある種の道具への愛。おれたちが初音ミク萌え言ってるのと同レベルで萌えてるだけなんだな。いわゆる二次元萌えと同義での、三次元萌えヤロウというわけだ。


あっはっは。


神、きんもーっ☆