TITLEが「エントリータイトル - 日記名」となったことで世界の断片化がより進むが犬は吠えない。

いわゆるロビンソンのスピッツ問題
http://rikuo.g.hatena.ne.jp/rikuo/20071014/p2007101401

はてなダイアリーTITLEが「日記名 - エントリータイトル」から「エントリータイトル - 日記名」になったことで、書き手よりもエントリの内容そのものを評価する流れに移行する、すなわち世界はよい意味でより断片化するだろうという予測が各方面でなされているわけだけれども*1、では実際に世界はどうなっていくんだろう。
その昔、一部のテキサイ管理者がブログ化を拒み、あるいは火災くんが一日分のダイアリを「一枚の絵」と評してブクマで切り刻まれるのを嫌った*2とき、私は彼らの自作への愛のようなものを感じたし、とはいえ読者がそれを望むなら世界がh3要素で構成されてもかまわないかなとも思っていた。
そして今回のTITLE要素変更により、書き手はさらに一歩引いた位置に立つことになる。書き手の顔は見えづらくなるが、エントリそのものを評価したいという読者にとってはたぶんよいことなんだろう。*3
この世界の断片化が、即書き手のモチベーション低下につながるとは思わないけれども、ちょっとは影響があるんじゃないかな?*4
なんていう書き手としての不安(不安?)を感じつつも、読者としての私はダイアリーもブログも人で見ていることが多いのだった。
これは私が楽をしたがるからだと思う。あの人が書いたものならば、この情報チャネルならば7,8割方おもしろいぜ、といった情報収集コストを下げるための「人」。
兵藤和尊さん(カイジ)の「王は平均して負けないから王」みたいな発言を思い出す。100%面白いわけでなくても、7,8割面白かったらその人は私にとって王みたいなもんだ。
世界の断片化がより進んで、エントリ毎で評価する風潮が主流になったとしても、私は平均して面白い人を読み続ける気がする。


だって楽だし。

*1:もちろんこれははてブという《世界切り取りツール》とのコンボでこそ断片化が進むわけだけれども

*2:ように私には見えた

*3:書き手と作品の乖離を惜しむのは書き手のケツの穴がちっちぇだけかもしれませんね。先の、テキサイ者や火災くんは書き手と作品の乖離どうこうじゃなくて、作品そのもの、文章そのものを愛していた。かってに切り刻むんじゃねぇという愛

*4:書き手っていう文脈をスルーする読者が増えるとエントリが冗長になるか、書き手がストレスをためるか、そんなことを気にしない書き手になるかの三択