いまおれのなかで「おんまはみんな」が熱い。

今週のおれは「おんまはみんな」にくびったけなのですけど、どこがっていったらあの「だけど」の使い方とそれに続くオチね。
この歌詞中の「だけど」というのは、「どうしてなのか誰も知らない」ことに対して理由を知ろうだとか研究しようだとか云々言わずに「だけど」事実おんまはみんなパッパカはしるのだと大上段から《まず》認めさせる。
その「事実は事実としてただそこにある」という現実を認めさせたうえで、それがそうあることは「おもしろい」ことなのだ・興味深いことなのだと言い切る。「おもしろいね」と言い切って歌を締める。
作詞は中山知子さんなわけだけれども、この「おもしろいね」で落とさなければならないなんらかの事情が彼女にあった、あるいは世相を反映してこうなった、あるいはまったく別の理由からこうなった。そんなことを考えるだに面白くて面白くてしょうがないのでした。
だってじゃあ作詞した時代が違っていたら「おもしろーいねー」は「はらだたしーいねー」だったかもしれない。変えられない現実にいらだつ青年の歌ならそうなるだろう。60年代あたりならそうなるだろうか?
あるいは決断主義とやらが流行った90年代なら「おもしろーいねー」は「でもやるんだよー」や「馬刺しうまーいねー」あたりかもしれない。そうしなければサバイブできないがゆえに。
さらにはゼロ年代(というのが何を指しているのかおれは知らないけれども)なら、たとえば現実は現実として認めつつあるいは問題を意図的に認識せずにもっと斜め上の理想を実現するライフスタイルをとるとかかもしれない。
もしそうなら歌詞は「だけど/おんまはみんなパッパカ走るー/ウルトラソウッ!」あたりだろうか。
最近流行ったし。