更新の停止したブログに惹かれるのは、廃墟に惹かれるのに似ている。

廃墟の美学だとか廃墟論だとかをおれは知らないのだけれども、廃墟ってのはようは建物から人を引いたもの、ってことなのかな? だとしたら、更新の停止したブログというのは廃墟と同じであり、廃墟が美しいように廃墟ブログもまた美しいのかなーなんて。
美しいってのはちょっと違うかもしれないけど。ちょっと惹かれる。
いまここに二つのブログがあるとする。ひとつはライブなブログで、もうひとつは更新の停止した廃墟ブログ。
ライブなブログに接するときには、コメントやブクマなんて道具を持ち出すまでもなく読むだけで書き手に影響を与えてしまう。すごく好きな文章や写真がもしかしたら自分が見たことで好きでない方向に変容してしまうかもしれない。あるいは書き手からのなんらかのレスポンスによって、あるエントリから受けた印象ががらっと変わってしまうかもしれない。
一方、廃墟ブログは見ても読んでも変わらずそこにある。読むことで廃墟が変わってしまうことはない。また、書き手のレスポンスもなく、読者がきっちり自分の責任でそのブログを読み解くことができる。そのブログを読んで感じたことは、他の要素に邪魔されずにただただ自分が感じたことである。あとで振り返ったときにも、自信をもってそういえる。
そして廃墟ブログはもしかすると未来の自分が同じように感じるだろうことをも保障する*1琥珀に閉じ込められた虫は明日見ても同じ姿でそこにいてくれる。明日見ても、来年見ても、もしかすると自分は同じように感じるかもしれない。過去に停止したブログが未来の自分を保障してくれる。
そんな安心感と期待みたいなものがある。
もうひとつ。
すべてのブログの向こうには必ず生身の女の子がいる。けれども、廃墟ブログからはその生身感を感じずに済む。そこもまたいいのかもしれない。
過剰なコミュニケーションに疲弊した心に、廃墟ブログの沈黙は心地よく響く。なんだか惹かれてしまう。そういう面もあるかもしれないね。知らんけど。

*1:してくれるような気がする