「正しさ」を武器にブログを書くのが怖い。

例えばあるタネ(SEED)となる出来事や外部のエントリがあるとして、それをふくらませるのに「正しさ」を使う。「生物学的に正しい」だとか「科学的に正しい」、「論理的に正しい」を使いエントリを組み立てる。すると、誰がやっても同じ展開・結論になる《可能性が高い》。
おれはこれが怖い。恐怖。
正しさを武器にブログを書く恐怖。それは、誰かとオチがかぶる可能性が増すことに対する恐怖なのである。
オチがかぶったからって恐怖することはない。なぜならそれは正しいのだから、というご意見ご感想はひどくわかるのだけれど、いかんせんおれは記事がユニークであることを一番大切にしたいと思っちゃっているのである。誰かとかぶることは耐え難い恐怖。《正しさ》という思考ツールが《他者とのかぶり》を誘発しやすいのであれば、おれは《正しさ》を捨てるのである。
いやまて。
いやしくもダイアラー・ブロガーを名乗るならば。同じ材料から同じ結論を導き出したとしても、文章の力のみでユニークさを確保すべきだ、という圧倒的正論もある。おれはこのご指摘にはぐうの音も出ないのでありました。あんたの勝ちだ。
正しくもあり、かつユニークであることを追求することもせず、ユニークさのみを求めて安易な道を選ぶ。そういう意味では、おれはダイアラーとしての戦いから逃げ続けているのである。
はい先生。ネコプロトコルは逃げ腰ダイアラーです。えーい。石ぶつけちゃえー。