パーソナライズ広告な未来にちょっと不安を抱く午後。

アカルイミライの象徴みたいに語られがちなパーソナライズ広告な未来、例えばおれの購入履歴からおすすめ広告が表示されたり、TV視聴履歴からおすすめCMが流れるような未来って、そりゃ便利だよ、わかるよ。わかるけどやっぱり不安っていうか。だって広告やCMでの共有知ってものがなくなっちゃう。
例えばCM美少女がすーごく気になってダイアリで記事にしたりしても、読んでいただける方がそのCM見てなかったら全然ピンとこない。いやCM美少女記事くらいだったら、企業サイトにCM動画がある時代なのでなんとかなるけれど、広告やCMの共有知を利用した「笑い」とかつくりづらいよね? そこがちょっと不安。
例えばオムツのCMが赤ちゃんのいるユーザのもとにしか流れないのだとしたら、多くのユーザは「だけどやっぱりママが好き〜♪」を知ることはないのだろう。そうすると「だけどやっぱりママが好き〜♪」がネタとして使われても「笑わせ率」が低くなる可能性があると思う。元ネタがわからなくても笑いを作ることはできるとは思うけれど、笑いを生む手法がひとつ閉ざされるんじゃないのかなって、そんなふうに不安になるんです。
もちろん。パーソナライズCM時代、パーソナライズ広告時代にはその時代ならではの「笑い」てものが生まれるのかもしれないけど。将来の笑いの一角を担うのは、共有知に拠らない、元ネタの認知度が低くても笑える「笑い」なのかな? そんな「笑い」が強さを発揮するのかな?
だとすると。次世代の笑いのヒントは「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」が握っているのかもしれないななんて。そんなふうにも思うんです。あの「笑い」を突きつめていったその先にあるミライ。