おはスタに見る表現の地平

ムダに長文。
毎週火曜日のおはスタは「絶体絶命でんぢゃらすじーさん」の着ぐるみがメイン司会を務めることになっているようなのですけど、このじーさんの演技・演出がすばらしい。
そもそも着ぐるみっつーのは演技力は皆無である。いいとこ目が動いたりヒゲがピクピク動く程度。そこでおはスタでは着ぐるみの演技力のなさ(表情出しやオーバーアクションができない)を補うために、スタジオの映像がいきなりアニメ絵にさしかわり声優がアドリブで叫んだりする。ラン・ローラ・ランキル・ビルナチュラル・ボーン・キラーズのように実写にアニメ絵が入り込むってゆう、アレです。
この演出を楽しむのにどういったリテラシー能力が必要であるか明確に指摘することはできないのだけれど、ある種のアニメリテラシー能力・キャラクター同一視能力(?)が備わっていれば「着ぐるみ」と「アニメ絵」の2つの画像間に発生する間隙・違和感を意識から切り放し、前後の映像を同一キャラとして取り扱うことができ、単純にネタだけ楽しむことができるということなのだろう。うまく説明できませんけれども、そーゆーリテラシー能力を今の子供なら持ってると判断した上で、その上でテレ東はこの演出方法を採用したのだ。しかもじーさんはさらに革新的で、先に挙げた映画群が編集を経た映画の中での演出であるのに対し、でんぢゃらすじーさんは生放送でこれをやっちゃう。素晴らしい。着ぐるみ生放送の表現は新たなフェイズを迎えた。
ただ類似の表現でも、戦隊特撮モノにときおり挟まれるCGアクションにはなぜかモヤっとさせられてしまいますです。先の映画やじーさんみたいに映像的にどーみても別物ってゆうアニメを挟むのではなく特撮とゆう「だまし」の一手法としてこっそり忍ばせてる感が余計に実写とCGの深い溝を感じさせてしまうのだとは思う。サーフィスがテカいキモい、動きがギコちないってのがなんだか鼻についちゃうのだと思う。コソコソだますな堂々とだませよ!って感じだと思う。
よりわかりやすくするために上記二者の違いをたとえていうならば、前者はエッチをしててその絶頂を迎える瞬間、脳内で目の前の女の子をアニメキャラに置換してプレイを楽しむのに対し、後者は絶頂を迎える瞬間女の子がものっそいブサイク顔になってて鼻毛がピロリンとか飛び出してて萎えてしまうことに対応するのだ。
つーかバカ、対応しない。しかもたとえになってない。さらにキモい。アニメ置換プレイとかちょうキモい。オーシマキモい。ヘンタイ。リック・アストリー。