桃太郎の文章速度を上げるために何かを書くつもりが、わけがわからないことになってひどく後悔しているおれがいる。
その日、おばあさんは山が落ちるのを見た。
胃がつっぱるような、妙な感覚に違和感をおぼえおばあさんが顔をあげる。
彼女のはるか頭上、雲間を破ってピンクの物体が顔を出し、ゆっくりと降下をはじめた。にこ毛に覆われた柔肌はいく筋もの雲を引いて、崑崙山の頂上に落着する。瞬間、おばあさんは時空が波打つのを感じた。視野ぎりぎりいっぱいまで広がったピンク色の壁の、そのまた両端の右と左に太陽が見えた気がした。その二つの太陽が重力レンズ効果によるものだということにおばあさんが思い至ったときには、すでに彼女の眼前には桃の壁が迫っていた。
右足がピンクの山と地面に挟まれぐしゃりと音を立てる。が、おばあさんがその音を聞いたかはわからない。聞いたと感じるための脳もすでにつぶされていたからだ。
桃はすべてを飲み込みながらその位置エネルギーを加速度に変換していった。
ふもとにある動物たちの村も桃の柔肌につぶされめり込み消えた。
きびの畑はその役目を果たすことなくその存在を消した。
轟音をまとって転がり進む桃は海に達した。
十分な速度を得ていた桃は波を割き、海水を押しのけ進み沿岸に恐ろしい津波をもたらす。
ついに桃は鬼が島に達し、鬼たちとその宮殿を飲み込んで停止した。
と、示し合わせたかのように桃の外面がはじけ、糖蜜のような甘い汁が濁流となって内海を満たした。
数日を経て列島の半分を覆いつくした桃の汁は、幾億もの命をその内側に溶け込ませているにしては、ひどく甘く優しい香りを放っていた。
「いや……ヒトに鬼、山に海、あまねく獣と無生物たちの血を吸っているからこそ、甘く香るのかもしれぬな」
おじいさんが一人ごちる。誰かが《桃源郷》と言ったような気がしたが、空耳に違いなかった。