ブログに感情を吐露すると、本当はそんな感情じゃなかったのに最終的にある感情に収束する。

ブログに感情を吐露すると、本当はそんな感情じゃなかったのに最終的にある感情に収束する。
(アリガチな考え方だけれど)おれは「感情⊃言葉」とおもっているフシがある。言葉は感情のすべてを表しきれないっていう思考停止なアレ。さらに、おまえの日本語は不自由・へたくそなんだよと言われることが多いせいでなおさら、ああおれがブログに感情を焼き付けた時点でそれは本当の感情の劣化コピーなんだなぁと思い知るのだ。
そして言葉というもののメリットでありデメリットでもあると思うのだけれど、言葉にした時点で複雑で様々な相を持つはずの「感情」はその言葉で表現できる範囲の「何か」に「定着させられてしまう」。自らの感情を表現空間の小さな「言葉」に押しこめてしまうのだ。
時おなじくして、おれはメガネ女子のことを考えていた。
おれはメガネ女子が好きだ。すごく好きだ。大好きだ。メガネ女子が好きという気持ちはほんとうに純粋な気持ちで始まっていた。宇宙開闢以来連綿とつづく感情「メガネ女子大好き」。おれはその思いをブログに書き綴る。ことあるごとに口にし、文字にする。
そして気付く。
おれは「メガネ女子大好き」と書くことで、気持ちのどこかを安心させてしまっていた。書いた時点で、メガネ女子を好きな気持ちを矮小で低級な何かに収束させてしまっていた。なのに、おれはそのことに気付かないふりをして、日々の忙しさにかまけ別のコトゴトに感情・思考リソースを振り分けてしまっていた。
違う。
おれがメガネ女子を好きな気持ちはもっと複雑で豊かで鮮やかで百億の昼と夜をすぎてなお輝きつづける太陽のごとき何かのはずだ。「メガネ女子大好き」のひとことですませていいはずがない。ないんだ。
あと思ったのだけど、おれこのエントリの冒頭ではブログの感情がどうこう言おうとしてたはずなのに、なんでメインがメガネ女子の話になっちゃってんだろ。