おれとドラゴンナイト4(ドラナイ4ネタバレあり)

往年のエロゲ、ドラゴンナイト4がリメイクされると聞き及びまして、おれとドラゴンナイト4について語るのだった。あれエロいらないよねぇ。以下ネタバレあり。

ドラゴンナイト4

ドラゴンナイト4

そんで、お話はまあリプレイモノなわけだけれど、ドラゴンナイト4てのはリプレイモノをゲームにすることで主人公視点の移動・違和感をユーザに感じさせるツクリにしてるところがすきなのです。エンディング見ると十中八九、この違和感を感じることができると思う。
(ドラナイ4の場合、純粋リプレイモノとは違うのかもしれないけど)飛躍して言ってみれば、イーガン(?)なりなんなりの、《コピー人格の葛藤》(?)をゲームプレイヤーが感じることができるとでも言うか。
いわゆるお話てきには「子供の主人公がラスボスと戦って敗北、捕らえられ年をとり、時間をさかのぼって子供のときの主人公に身分を隠して協力する」というもの。
リプレイ時点(2週目)においてもちろん主人公の目的はリプレイに楔を打つことであり、すなわち死ぬために生きているのだけれど、それはゲーム内キャラの《理由》でありプレイしてるユーザ=おれの気分ではない。おれは目の前の2回目のおれをこそ動かしているのであり、1回目のおれはもはやおれではない。1回目のおれはオリジナルなのかもしれないが、コピーのおれこそがおれなのだ。
ラスボスを倒し、2回目のおれが消え行くとき、もちろん本体はのこっており、1回目のおれ=オリジナルのおれの幸せはエンディングの中で描かれ・将来が確約されているのだけれど、それはおれであっておれではない。舞台はつづくが、おれはすでに観客席に降りているのだ。
だがオリジナルが妬ましいであるとか、そういう気分にはならない。
それは多分、コピー人格=2回目はオリジナルからしてみると「オリジナルの子供」のはずなのだけれど、コピー人格のほうが「経験量」が多いためか、まさに「親」のような感覚になってしまうからだろう。消え行く間際、オリジナルの幸せを願うことができるのである。
この感覚はリプレイゲーならではなのかな、と思う。いや、ドラナイ4ならでは、なのかもしれない。