子供の頃、細引きソーセージのほうが上等なのだと思っていた。

子供の頃、おれは細引きソーセージのほうが上等なのだと思っていた。そんな認識を改めたのがまさしくシャウエッセンとの出会いだったと記憶している。あれとの出会いはおれの中で革命だった。これがソーセージというものなのか? おれが今まで食っていたのは何だったのだ? ビニールにつめた豚すり身か? シャウエッセン。おまえこそが本物なのだ。そんな風に思った。
来る日も来る日も親にシャウエッセンをせがみ、自らボイルし、真ん中からプチッと折っては肉汁をほとばしらせていた。そう。あの日までは。
そうあの日、おれは思ってしまったのだ。細引きより粗引きのシャウエッセンのほうがうまいのなら、もっと粗引きにしたらもっともっとうまいのじゃないのか? だがどこまで引き方を粗くしていいのだろう? 粗引きと肉塊の境界、これ以上粗くしたら粗引きと主張できなくなる境界があるのではないのか? もう粗引きサイドには引き返せない肉の境界、事象の地平面はどこにあるんだ?
そうして千億の昼と夜を肉の引き方について悩み続ける。明確な答えも出せず、ソーセージものどを通らない日々。ああ、これ以上悩みたくない! もう引き方のことなんか考えたくない! 助けてくれ、肉塊の神よ!
そうしておれはソーセージを捨て、焼肉に行きついたのである。