子供のころ、ギョームジョーカシツチシが怖かった。

子供の頃、アナウンサーが口にする「ギョームジョーカシツチシ」が怖かった。どんな漢字を書いて、どんな意味があるのかわからなかったけれども、ブラウン管の中ではたいていつぶれたトラックとヨーギシャの名前とのセットで出てくる言葉だったから、とにかくものすごいハンザイてきな何かなのだと思っていた。一番身近な大罪だった。小二のおれにはそうだった。
その「ギョームジョーカシツチシ」がおれの中で「業務上過失致死」に“なった”のはいつだろう? それがいつなのかわからないけれども、とにかくそれまで感じていた恐怖はまったくなくなった。恐怖は「業務上過失致死」という一個の言葉の中に飲み込まれてしまったのだ。ときおりテレビで見かけても「明日の天気」と同じ程度の興味しか引かない。大人になるってそういうことかなと思った。
でも違った。大人になるってそういうことじゃない。あのころより大人になった今、また「業務上過失致死」という言葉に恐怖を覚えるようになったからだ。それは多分、「業務上過失致死」という一個の言葉が「業務上」と「過失」と「致死」に分かれて認識できるようになってしまったせいなのだと思う。その認識革命以降、おれは日々「業務上」の「過失」にビクビクするようになった。いつ社内の立場的に「致死」してしまうかしれない、と考えるようになった。そういう恐怖を抱くようになったのだ。ようするにダメ社員ということである。