アセチレン・ランプとフレーミーとゲームの話。

フレーミーの話の続き。
例えば、アセチレン・ランプのチョンマゲのろうそく。あのろうそくを作中の人物の誰もが指摘しないからこそ、ろうそくに似てはいるがろうそくではない「何か」であると読者が了解していたのに、ある事態におちいってランプはあのろうそくで火をつけてしまう。
作品と読者の中で培われた「約束」が反故にされたみたいに感じて、結構評判悪いシーンだと思うのだけれど、じゃあおんなじ「裏切り」構造のフレーミーではアセチレン・ランプに感じたもやもやを感じないまま、「意外性」だけを楽しく感じられるのはなんでなんだろう?
「下準備」と「尺の短さ」かな?
例えばフレーミーは毎回登場する際、描画ツールのBOX機能で描かれる。あのプロセスを挟むことで、ユーザが「線で描かれてはいるが、犬は犬」と勝手に思い込むことを防止してはいないか? 「犬っぽいけど、犬じゃない線」と毎回思い起こさせるひと手間。下準備と言ってもいい。
もうひとつは「尺の短さ」。ランプに裏切られたと感じたのは、作品の長さもあるのではないか? 「ろうそくはかざり」という前提・約束がユーザの中に生まれるにはある程度の尺の長さも関係あるんじゃないかと。フレーミーは数十秒に1回、裏切る。ユーザが勝手に約束をする前に裏切る。だから「意外性」だけを楽しめるのではないか?
という前振りもやっぱり丸無視させていただきまして、じゃあスーパーペーパーマリオはどんだけの頻度で裏切り、意外性をカンジさせてくれるのか? そんなことを考えています。2面に一度は裏切られるのか? 5分に一度はワナがあるのか?
ワナて。ここはどこのカットスロート・アイランドですか。