ものごとは可能性で語られなければならない、ということ。

つい先日までうちのマンションの4けんとなりには老夫婦が住んでいるとばかり思っていたのですけれども、いつもより帰りが早かった昨日、ときおり駅で見かける美少女OLが入っていったのです、そのドアに!
とゆうことはおれがいつも終電で帰り、その家の前を通る際に通路に面する風呂窓から立ち上っていたあの湯気は!老人うぜぇなぁと思っていたあの湯気は!三分の一の確率で美少女の湯気だったのではないか?老夫婦とゆうのは寝るのが早い生き物だから(なぜならもうすぐ死んじゃうから)高確率であの美少女の湯気なのではないか?昨日の帰宅時間の実績から言えばほぼ確実にあのちょう美少女の体から立ち上る湯気なのではないのんか?そこんとこどうなのか?
シュレディンガーの猫風に考えるならば、あの湯気は美少女のものでもあり老夫婦のものでもある、となってしまうのかもしれませんけれども、昔の偉い人も言ってました。人は幸せ探す旅人のようなものと。おれは幸せを探し求めます、シュレディンガーなんかクソくらえ。可能性が1%でもあればおれは美少女に全額ベットするぜ!
ものごとは可能性で語られなければならないとはこうゆうことをいうのだ。あきらめたらそこで1%も0%になるんだぜ?
こうしておれが終電で帰る理由が増えたのでした。また一つ。