自他の話。そしてオレがネットをマジメに考えていない話。
「自分と他人は分かり合えない」てな話は連綿と繰り返されてきてて、それだけ興味が尽きないテーマなのだと思うのだけど、こうゆうときオレのなかで決まって引き合いに出されちゃうのが「カイジ」の「通信」の話と、「マスターキートン」の4巻の最初の話「喜びの壁」。
カイジの通信の話は「ヒトはあくまでわかりあえない。できるのはただ通信すること。通信とは通じたと信ずること」ってゆうロマンティックな話で、かつ、生き方としては至極まっとうであんまり文句はない。実生活にも即適用できる話で非常に好きですよ。
んで、マスターキートンの4巻の最初の話「喜びの壁」はもうちょっとロマンティック側に踏み込む。
プレイヤーは4人、軸は2本。「ヒト←→動物」「年寄←→若者」の2軸を対比させて物語は進む。
ヒト=キートン、動物=ウサギ、で二人を分かつものは「言葉」。年寄、若者の方を分かつものは「経験(人生)」てな対比をとってる。ヒト←→動物の言葉の壁は絵で表現されててあくまで伏線的に進む。メインテーマに関わる「他人との壁」については「経験(人生)」をもった老人からある視点が発せられる。
若者「あいつは親友だ……と思ってた。 あいつが大好きだったから、 どうしても許せないんです。 [--Snip--] 僕は一人ぼっちだ!!」 年寄「それは素晴らしい悟りだ。 それを知っていれば、誰だって許せる」
「カイジ」の「通信」の話に通ずる「自他の発見と信頼とゆうコネクション」てな視点を年寄は提示していて、これはこれですごく好きなのだけれど、この物語はもうちょっとロマンティック側に踏み込む。
物語のラスト、2軸の交点の位置で発生する「奇跡」が4人のプレイヤーを繋ぎ・包み込む。そのとき、読んでいるオレはちょっとだけ震える。多分オレが「カイジ」的なある種諦観に満ちた視点をひどく現実だと思いながらも「やっぱり壁を越えて繋がれるかもしれない」とゆう「喜びの壁」ラストの甘ったるい視点に憧れてしまうからなんだと思う。*1
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ちなみに、このラストの感覚は、今、まさに「いかりや長介」に向けられている日本中のいかりやファンの想いと同じ種のものですがね。蛇足か、この文章は。
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ん?何の話してんのかって?いや、だから、オレってネットはアソビでネットをマジメに捉えていないのヒトで、議論とかはリアルでたくさんやっててメンドーってヒトで、ネットではカイジ的視点でみんなで面白くやれればいいなぁーっていう戯言。通じたと信じること。そう簡単にいかねぇのはわかってるよ。それでも、さ。それでも、だよ。ん?キートンな話はまるっきり関係ないだろって?あー、、ま、その辺は目をつぶって、、、げふんげふん。