最近、鍵のことをよく考える。

最近、鍵のことをよく考えるのだけど、鍵ってのはようは「自分と他人を分離すること」を物質化したものなのだろう。
この部屋に入れるのはおれだけであり、他の人が入られてはこまる。だから鍵をつける。
このファイルにアクセスできるのはおれだけでなくてはならない。だからパスワードを利用する。
自分と他人との分離を可能にした「鍵」というものは、一方で、自分自身を外部に取り出したものと言うこともできる。そしてそれは鍵さえ手にいれれば、手に入れた人間は鍵の持ち主と区別がつかないということでもある。
これはとても危険なことだと思う。鍵を奪われでもしたら、自分という領域を侵犯されてしまいかねないのである。
とすれば、鍵やパスワードを大事にしない人というのは、自分を大事にしない人ということだ。おれはそういう人を見ると、大変残念に思う。残念に思い、注意したくなる。
「もっと自我境界を大切にしなさい」と。
モニタにパスワード付箋貼っているおじいちゃんを見れば「もっと自我境界を大切にしなさい」と思う。
家の鍵を玄関横の鉢植えの下に隠しているお隣さんを見れば「もっと自我境界を大切にしなさい」と思う。
だがもちろん、「くすっ。いつでも来ていいよ」といって部屋の合鍵を手渡してくれる美少女彼女的存在については当方いつでもウェルカムなのである。そのような彼女がいればどんどん自我境界を侵食して差し上げたいとおもう。
いればな。