まなびストレート(#8だけ)を見たぜ!

id:amiyoshidaさんの感想に触発されてまなびストレートをみたぜ! ても8話だけなので、たいしたことは言えないのですけれど、なによりも設定に燃えた。「時は2035年少子化が進み……(略)……廃校の危機に立つ学校が多くなっていた」 現代も起きてるだろう問題を明確にユーザにつきつけるために、「未来」もってきた! 未来設定! ちょう燃える!
話の腰をぐんにゃり揉むけれども、私は「仕事するのが偉い」という考え方がキライである。「仕事が人生の存在証明」だとか「やりがいのある仕事をしよう」だとか、そんなのは世界が貧しいから出てくるセリフだ。世界が豊かなら、仕事なんてしなくていい。仕事をするのはあくまで世界が不完全だから、なのだと思う。
古代の裕福層が娯楽の一つとして学問に取り組んでいたように、あるいはクラークの幼年期の終りで労働から解放された世界中の人間が一生のあいだいくつもの大学を出るように、仕事しなくてよい世界では「学ぶ」ってのは最高の娯楽なのだろう。
そんな世界での「学校」てのはいったいどんな場所なのだろう。幸せに学び問うことができる場所? 社会に出るまでの腰掛ポジションなどではなく、永続的にいていい場所? したいことを自由にできる場所?
クラークな世界設定だと「学校」がどんな場所かははっきりとは見えない(それが主眼じゃないし)。ただ私のなかでクラークの描く世界での「学校」は(自分が強く自分を保ちさえすれば)ものすごくたのしい場所だろうと予感していた。
その予感が正しいものかそうでないかはわからない。
昨晩まなびストレートを見て、クラークな世界の「学校」のことをふと思い出したのだった。ただまなびストレートは古代裕福層の「学び」の環境に若干近いのだろうか?



まなびストレートでは《2035年・高校に進学せずに働きに出ることがカッコイイとされるような時代》という、学校に対する逆風設定を用意した。敵は経営陣じゃなく、世界の空気。その中で学校のあり方、いや、生徒のあり方を問う。2007年の空気で「生徒のあり方」を問うのじゃなく、2035年の「学校で勉強するなんてカッコワルイ」空気のなかで「生徒のあり方」を問う。
これはSFだ。
SFは設定だ*1。伝えたいテーマを際立たせるためにSFは設定を用意する。2007年にいるままでは見えづらいことを見えやすくするために2035年とその空気を用意する。
まなびストレートが「学校」について、「生徒のあり方」についていったいどんな答えを出すのか、見守りたい。あるいは答えは出さず、ユーザがそれを見つけるのかもしれないけれど、それはともかく、まなびストレートは設定厨必見のアニメだと思った。思いました。この世に設定厨ってのがいるとして。



すくなくとも私は来週から見続けます。おもしろいですコレ。DVD出たら1話からソッコー見るとおもう。

*1:SFは設定以外にもいろいろあるよ