無断リンクと通信の本質について暇なので考えていた。

週末、通信についていろいろ考えていた。
たとえばここに一つの懐中電灯がある。50m先の誰かに向けてスイッチをつけたり消したりすれば多分何かの情報が送れるのだと思う。プロトコルとやらを決めておけば相手に何かが通じたり、あるいは通じずに誤解したりするのだろう。
ただこの通信やら情報やらはちょっと上等な気がする。
そうではなくもっと前の状態、懐中電灯の明かりが届いた瞬間のことを考える。
明かりが届いたとき、あるいは明かりが届いたことを知ったとき、その明かりがなんらかのシグナル(信号)を持っていなくとも、場合によっては送受信者に伝わることがある。
それはたとえば送受信者が「知らないことがあるのを知らない」状態から「知らないことがあったことを知った」状態に遷移するという類のことだ。
言葉を変えれば《無知》から《未知》に変わるということだと思う。そして無知というのが静止した状態だとすれば、未知というのはなんらかのベクトルがある。より知りたいという気持ちを生み出してしまう。これは通信という行為のもつ特性のひとつだと思う。


また、懐中電灯の明かりが届いたとき、暗闇は丸く切り取られる。照らされない場所があることを知り、それが未知という場所であることをも知る。と同時に、明かりが届かない場所というのが意図的に作れることをも知るのだと思う。情報というものが《隠しておく》ことができること、それが《情報の価値》を生むことも理解する。


というか。
そもそもなんで通信をするのか? 情報勾配があるから通信が生まれ、価値が生まれるとか?
というより情報勾配が発生するのは結局は《次元》てヤツのせいなのか? 空間と時間があるから、それを越えなければならない問題が発生し、通信てものが生まれるのか?
であれば、通信を行う存在はすべて、空間や時間という宇宙の理不尽さにケンカを売っているってことか。おまえらおれたちを勝手に隔てやがって、通信してやるっ! みたいな感じか?

とまあここから無断リンク論に続けるつもりだったのだが、あと5万字くらいかかりそうなのでめんどくさくてやめた。ネコプロトコルはいつもこんなです。