ブログはフィクションかノンフィクションかで評価されるべきなのか。

「で今日の議題は『ブログはフィクションかノンフィクションかで評価されるべきなのか』なのだけれども」
「そんな軸で誰も評価しない。おわり」
「はやっ」
「てか、そういう答えありきくさい構図に持ち込むアンタのやり口がきにいらない」
「いやそれはそれとして。あとでお菓子あげるから」
「うん。じゃあいいよ」
「……。で、冒頭の問いなんだけど。おれの考えではノンフィクションってラベルが嫌いなわけ」
「やっぱりそうきたか。あれでしょ? ノンフィクションってラベルは、読者の判断コストを下げる効果があって有用だけど二つ問題がある……」
「そう。一つは読者の判断コストを下げるっていう親切さはある種読者をバカにしてるっていう点。そしてもう一つはノンフィクション=『ほんとうのこと』は世界にとって大切で有用なんだという前提を無条件に設定してるところ。疑いもせず」
「でた! この、思考停止大嫌いっ子め」
「だいたい『ほんとうのこと』ったって、ブロガーがそう言ってるだけなんじゃないの? うそつきが『これはうそじゃありません』て看板かかげてたら安心するのか?」
「そこまで言う」
「ブログにフィクション・ノンフィクションて軸は持ち込むべきじゃないんだよ。テレビや新聞よりもウラとりづらいメディアに、うそもほんともあったもんじゃない」
「じゃ、あれ? 定番の『面白いか・面白くないか』軸? 世界には面白いブログとそうでないブログしかないって?」
「それが一つ。あともう一つは、そのブログやその記事が世界を駆動するか否か。ネットを駆動するか否か」
「駆動?」
「加速のほうがいいかな。そのブログがフィクションだろうとノンフィクションだろうと、読まれ参照され引用され吸収され咀嚼され、それに感化・影響をうけ『周囲が動く』『ネットワークが加速する』こと。それがブログの価値を決めうるんじゃないか」
「フィクション・ノンフィクションじゃなくて、アクセラレーション(加速性)・ノンアクセラレーション(非加速性)てところ?」
「英語として正しいかは知らないけどね」
「でもじゃあノンアクセラレーションなブログ、誰にも読まれず省みられないブログはネットにとって価値がない?」
「というより、ブログや文章は出たがっているはずなんだ。だってそれは言葉や表現なんだから。書いた本人がどう思おうとその言葉なり表現は《出たがっている》。だから読み手はそれらの言葉や表現を掬い上げなくちゃいけない」
「書き手の意思を無視しても?」
「書き手の寿命は100年でも、言葉や表現に寿命はないからね」
「答えになってないよ」
「答えられるとも思ってないよ」
「いつも大事なところはごまかす」
「じゃ、今日の脳内会議は以上で」
「お菓子は?」
「あ。それはほらあれだ。今度っていうか」
「いつも大事なところはごまかす」