ウォシュレットはおれに二つの選択を突きつける。

ウォシュレットを使い始めて幾星霜、いまだおれを悩ませ続ける二つの選択というのがあって、それがドーナツ問題と自我境界問題なのである。

ドーナツ問題

要はウォシュレットがその標的を穴としているのかその周囲としているのかがよくわからないということである。たとえばいま仮に現場がクリスピークリームでいうところのチョコレートグレーズド*1のような状態であったならば、確かにドーナツ表面を洗い流すようにウォシュの矛先をむけるべきように思う。
とはいえ、ウォシュの成り立ち・出自からするとドーナツ表面洗浄はウォシュの管轄外なのだろうか? 彼らは、もっぱら穴担当なのだろうか? そこがまずわからない。

自我境界問題

そもそもウォシュは穴を担当するのだ、と結論づけたとき次に問題になるのがウォシュにゆるす自我の境界というか、ひらたく言うと穴は開放気味にするのかシャットアウトするのかがわからない。一時期はてなでは腸内洗浄という言葉が流行った。あれから考えると水流の進入を許すのがよさそうにも思える。
あるいは現代はもっとセキュアであるべきで、水流ごときには(文字通り)門戸をとざすべきなのか、そのあたりの判断がつかないのである。

そういった理由で

この二つの問題・選択が解決しない限り、おれが安心してウォシュレットを使うことはないとは思うけれども、いやはたしてそうだろうか? ウォシュレット利用って人生に必須か? そんなことで頭を悩ますくらいなら、いっそウォシュも紙も使わず現場を立ち去るという第三の選択も……。

*1:ミスドでいうところのチョコリング、あるいはチョコファッション