「可能性の雲」に恐怖する。

最近改めて、スペースデブリ怖いなとおもっているのだけれども、これは多分に「正体がつかめない」「確実な死ではなく、可能性の死を運んでくる」という二点なのかなと考えている。
デブリとの接触は軌道が交差するか否かで語られたりなんかして、その文脈においてデブリは往々にして1個の物体ではなく、5km四方のひろがりの中に100個の物体が含まれているとかそんな感じなわけだ。その接触の確率は1/100万なんていう「数字」に過ぎず、どんな風に死がやってくるのかわからない。次の瞬間、死んでいるか、あるいは生きているかのどちらか側の状態に確定する。その存在のつかみどころのなさ、死の可能性を運ぶもやもやとした雲のような何かになんだか恐怖してしまうのである。
と、ここではたと気づく。
可能性の恐怖はなにもスペースデブリだけじゃない。
たとえば、渋谷のスクランブル交差点を歩いていて、すれ違いざまに狂ったおばちゃんに斬りつけられる確率だってもしかしたら1/100万よりよっぽど高いかもしれないじゃないか。向こうからわたってくる人たち一人ひとりが死の運び屋である可能性というのはゼロじゃない。宇宙に出なくとも、おれはそんな「死の可能性の雲」に日々さらされているんだ。
その事実に気づいたおれは、死の恐怖をやわらげるためにあるいはその対抗手段のために、「自衛」と称してナイフを懐にしのばせる。
かくして、スクランブル交差点の可能性の雲はその致死率をわずかに引き上げるのであった。