ごはんの擬人化に意義を唱えたいのである。

おおよそごはんの擬人化においては、みながみなお茶碗に顔を描きやがりますけれども、いやそれ違うだろう。それは違うだろう。それじゃぁご飯の擬人化じゃない。お茶碗の擬人化である。
いや確かに擬人化絵師の言い分もわかる。ごはんてきな存在は、ハチやアリのような社会生物的扱いが妥当であり、であればこそ代表となる“顔”はお茶碗に描くべきなのだ、実際おれたちが接するときコメ一粒一粒と対話していないじゃないか? お茶碗一杯、二杯という接し方じゃないかという主張なのだろう。
言い分はわかるけれども。わかるけれども、それは人間側の都合だろう? あなたがごはんをそう“見たい”からそういうロンリ、米=お茶碗というロンリを振りかざしただけであり、ごはんつぶらにしてみれば十把一絡げではなく個人個人で見て欲しいと思っているのである。
お米たちは嘆いている。
そう。あなたがごはんつぶをごはんつぶたちとして見ずにお茶碗単位で扱うとき、お茶碗のなかの全てのコメたちは泣いているのだ。いってみれば、全米が泣いているのである。